タブロイドの編集長として

93年2月には経営危機に直面したポスト紙の再建のため、陣頭指揮を執るべく編集長になった。ポスト紙を愛することにかけては人後に落ちないピートだが、事態は深刻だった。経営に行き詰まった社主が新聞を手放したため、不動産業で知られるエイブ・ハーシュフェルドがポスト紙を買収し、編集者から記者まで70人を一挙に解雇した。

もちろん編集長であるピートもクビになったが、スタッフたちはこの暴挙に対して立ち上がった。ニューヨーク・ポスト紙は1801年に創刊されたアメリカ最古の新聞である。ポスト紙は同紙を創設した「建国の父」の1人、アレグザンダー・ハミルトンが大粒の涙を流す顔を表紙に掲げ、ハーシュフェルド批判の記事を満載した。

ピートが編集長として抵抗の陣頭に立つと、ニューヨーク・タイムズやニューヨーク・デイリー・ニューズはじめ全米各地の新聞から大きな声援が届いたが、結局、ピートは解雇され、ポスト紙は世界的なメディア王ルパート・マードックの手に渡って生き延びた。

4年後、不動産で財を成したモーティマー・ザッカーマンの依頼でデイリー・ニューズ紙の編集長に収まった。有名人のゴシップを売りものにするのでなく、質の高いタブロイド紙作りを目指したが、マードックの傘下に入ったライバルのポスト紙に対抗する方針を明確にした社主と対立。

解雇されたのは8カ月後のことだった。ニューヨークのタブロイド版両紙の編集長になったのはおそらくピートが初めてだろうが、両紙の編集長を解雇されたのもピートだけだろう。

あのときは、良質のタブロイド紙を作れば読者はついてくるという信念を持って新聞の立て直しに心血を注いだだけに、落胆も大きかった。思えば続いて起こる地方紙の衰退、消滅、デジタル化など大津波のような新聞の危機を目前に、紙媒体としての新聞を盛り上げたいという最後の抵抗をしていたようにも思える。

編集者としてのピートは記者を励まし、後輩を育て、有名無名問わず、数多くの友人を持った。ロバート(ボビー)・F・ケネディと親交を結んだのは60年後半だった。大統領選に出馬するようボビーへ手紙を書いたこともあった。

その手紙のためばかりとは思えないが、ボビーは出馬し、68年6月、ロサンゼルスのアンバサダーホテルの宴会場で多くの熱い声援を前に選挙演説をした。ボビーのキャンペーンをずっと追い掛けていたピートは、会場から奥の配膳室に入ってきたボビーが記者団やコックなどに囲まれる姿を後ずさりしながら取材していた。突然、銃声が響き渡り、ボビーが倒れた。ピートは現場で犯人を取り押さえようとした1人だった。

このときから半年間、彼は「ライターズ・ブロック」と呼ばれる状態から抜け出せなくなり、原稿が一文字も書けなくなったという。以降、政治家と友達になることは間違っていたと何度も言っていた。

しかし、このときのように事件現場に居合わせる才覚、あるいは現場を呼び寄せるようなジャーナリストとしてのピートの嗅覚はおそらく天賦のものなのかもしれない。それは9・11同時多発テロでも発揮された。

あの朝8時、ピートは世界貿易センタービル(ワールド・トレードセンター)に近い市庁舎の隣にあるツイード・コートハウス(旧裁判所庁舎)で開かれた歴史協会のミーティングに出掛けていた(なぜ、あの朝に限ってそんな打ち合わせがあの建物であったのか不可解)。途中、「ジェット機がトレードセンターのタワーにぶつかった!」という知らせが飛び込んできた。

すぐに表に飛び出すと、南タワーが大きく爆発して巨大なオレンジ色の炎が噴き出すのをチェンバーズ・ストリートで目の当たりにしたのである。プレスカードを取りに帰宅した彼と一緒に2人でトレードセンターへ向かい、北東角で見上げていると、黒い煙を吐く南タワーがちょっと傾いて、突然、爆発。紺碧の青空に白い物体をキラキラ輝かせながら崩壊するところを目撃した。

自宅はトレードセンターからほんの13ブロック北、幸運なことに停電もせず仕事できる状態だったので、ピートはデイリー・ニューズ紙に9・11とテロ後のニューヨークのコラムを書くようになった。

あの前日の10日、それまで数年温めてきた長編小説『フォーエバー』の完成原稿が上がったので、翌日には2人で夕食に出掛けて祝杯を挙げようと言っていた。ところが、ニューヨークの始まりから今に至るまでの歴史を書きたいと思っていたこの本の最終章は9・11なしには成り立たなくなった。それから最終章の修正に1年以上もかかったのである。

それまでにピートは代表作『ドリンキング・ライフ』(94年)、『8月の雪』(97年、未邦訳)、『ザ・ヴォイス──フランク・シナトラの人生』(98年)、『ディエゴ・リベラ』(99年、未邦訳)などを出し、『フォーエバー』(03年、未邦訳)の翌年には『マンハッタンを歩く』(04年)、その後『ノースリバー』(07年、未邦訳)、『タブロイド・シティ』(11年、未邦訳)などが続いた。

新聞のほかにエスクァイア誌、ニューヨーク誌、バニティ・フェア誌など多くの雑誌に寄稿、エッセーや書評なども書いた。本の序文はどれほど書いたか数え切れない。映画台本も手掛け、時には友情出演(いつも新聞記者の役)した。頼まれるとノーと言えない性格なので、多くの講演会へ出掛けスピーチし、テレビの対談番組などにも出演した。

9.11テロを目撃して

仕事が大好きでよく働き、メキシコのほかダブリン、パリ、ローマ、パレルモなど2人で旅したり、短期間滞在した。元気だったピートも、2014年3月には急性腎炎から心拍停止を起こし昏睡状態に陥ったが、奇跡的に生還した。

このとき両腰の複雑骨折が見つかっていたため車椅子で帰宅すると、ブルックリンへ帰りたいと言い始めた。2万冊を超える蔵書やファイルのほか、病人を抱えての引っ越しは考えるだけでうんざりだったが、生まれ故郷へ戻ってブルックリンの本を書きたいというピートの熱意にノーとは言えなくなった。

ブルックリンに引っ越したのは16年夏、それからちょうど4年後に自宅前で転倒、右腰を骨折して手術が必要になった。ニューヨークではコロナが蔓延して連日数百人が死亡していた20年のこの時期、目に見えるように弱ってきていたピートには手術に耐えられるだけの体力がなかった。3日後の8月5日早朝、息を引き取った。

現在、私の手元には彼が書き始めたブルックリンの本の草稿やアウトライン(全体の構想)、大量の資料や本が残されている。その草稿に目を通してみると、初めて会ったあの日の彼の声が聞こえてくるようだ。メコンデルタの戦闘で何人の死傷者が出たとか、どこの村が爆撃でやられたというニュースは「事実」であるかもしれないが、それが自分にとって大切な「真実」なのだろうかと問い掛けたあの声だ。

彼はブルックリンで育った当時とその街をもう一度書くことで、自分にとって大切な真実を記そうとしたが、未完に終わったのはいかにも残念だったに違いない。しかし、ブルックリンで最期を迎えたいと言う希望どおり、生まれたメソジスト病院で死去。今ではブルックリンのグリーンウッド墓地に眠る。

本の舞台になるはずだったアパートのある通りは誕生日の6月24日、「ピート・ハミル・ウェイ」と命名された。

→ 追悼文トップへ戻る

手元に遺された未完の物語