米作家ピート・ハミルの死から1年、妻・青木冨貴子がつづるハミルの声と「真実」
ニューズウィーク日本版 2021年8月10/17日 夏期合併号
ピートに初めて会ったのは、彼が初来日した1984年3月6日、月刊誌「諸君!」の連載でインタビューしたときのことだった。短編集『ニューヨーク・スケッチブック』(82年、邦訳・河出書房新社)で注目を集め、自伝的小説『ブルックリン物語』(83年、筑摩書房)が出たところだったが、何より映画『幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ』(77年)の原作者として日本でも知られるようになっていた。
彼はニューヨーク・ポスト紙を皮切りに、庶民向けのタブロイド版新聞で60年代後半から健筆を振るった。新聞にコラムを書く一方、なぜ短編や自伝的小説などフィクションも書くのだろうか。ホテルで会うと、まずベトナム戦争について聞いてみた。
彼は66年と67年の2回、計10カ月を特派員として過ごしたと答え、ニヤッと笑顔を見せると、「戦争はドラッグみたいなものさ」と続けた。「でも、僕はいわゆる戦争志向のライターになりたくなかった。つまり、戦争を商売にしたくなかった。いくら戦闘について書き続けようと、それは結局、戦闘についてただ書くことの繰り返しにすぎない」
ベトナムではいつも自分を単なる旅行者としか思えなかったと、彼は言った。いつでも帰れるところがある自分に、後ろめたいものを感じたというのだ。「朝起きて死傷者の出るような戦闘をカバーして、夕方サイゴン(現ホーチミン)に戻ってくるとホテルでビッグディナーにありつく。そんな毎日にとても耐えられなかった」
もっと大切な戦争報道はアメリカ本土にあると思った彼は、帰国して反戦コラムを書き続けた。ジョンソン政権のベトナム政策を鋭く非難し、街頭のデモを強く支持した。一方で自分の生まれたニューヨークの人々の横顔を描き始めた。
自分の人生の一片や17 歳の時に海軍から戻ってきた日のブルックリンを書いた。それはどこでどんな戦闘が起こったという報道記事より、自分にしか書けない「真実」であると思えたのだと答えた。
このインタビューの直後、ニューズウィーク日本版で働くことになった私は、その秋、ニューヨーク支局へ赴任し、3年後の87年5月23日にピートと結婚した。今から思えば、その頃のピートは不遇をかこっていたのだが、翌年11月には古巣のポスト紙のコラムニストに復帰。水を得た魚のように勢いよくキーボードをたたき始めた。
国連を訪ねたソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領(当時)から、パレスチナ問題、クリスマスになるとホームレスについて書いた。それも週3回絶えることなく書きまくり、街に出て市民の話を聞き、不満の声にうなずいた。「それまでのコラムはほとんどデスクで書かれたものだったが、僕と(ピュリツァー賞受賞の名コラムニスト)ジミー・ブレズリンが外へ出掛けて書くようになったんだ」とよく言っていた。
「ピート・ハミルがジャーナリズムに文学を取り入れた」と言ったのは、アイルランド人作家のコラム・マッキャンだが、ピートのコラムにはその日の街のざわめきから、吹きまくるみぞれ交じりの強い風、たたずむ人々のため息などが描かれる。
→ 後半を読む ”タブロイド紙の編集長として”
結婚20周年の2007年5月